このたび、よき出逢いやご縁に恵まれ、名古屋市中村区に「菜の花こころのクリニック」を開院させていただくことになりました。
当院は正確な 診断や薬物の適正使用を基本とし、患者様それぞれの取り巻く環境や心身の状態に応じた、適切なアドバイスを心掛けております。
「その人がその人らしく、今日よりも明日が少しでも前向きに過ごせるように」、そんなクリニックを目指しています。
スタッフ一同、誠意をもってご対応させていただきますので、よろしくお願い申し上げます。
関市(旧武儀郡)武芸川町で生まれ、幼少期を山や川、田んぼに囲まれた豊かな自然の中で過ごす。
私立滝高校から岐阜大学医学部医学科入学。卒業後、同大学医学部付属病院で初期臨床研修(内科・外科系)を修める。
同大学医学部付属病院精神及び神経病理学講座(精神科)に入局する。
同大学精神科医局に所属し、精神病理学の権威である小出教授指導の下で精神科専門研修を受ける。
その後は、岐阜赤十字病院精神科に勤務し、外来及び入院医療に携わり、精神疾患全域にわたり圧倒的な症例数をこなし標準的な治療を確立させる。
さらに、いまいせ心療センター(旧一宮市民病院今伊勢分院/認知症専門病院;物忘れ外来及び入院担当医)、好生館病院、北林病院等の民間病院での研鑽の場を得て、医療の習熟とともに地域医療に貢献すべく菜の花こころのクリニック開院に至る。
- 精神保健指定医、日本医師会認定産業医
- 日本精神神経学会 所属
- 日本老年精神医学会 所属
- 日本うつ病学会 所属
- 日本産業衛生学会 所属
- 日本東洋医学会 所属 など
ぼくは何もない山奥で育った。不器用で要領の悪かったぼくは、学校の先生と衝突することが多く、周りの大人ともそりが合わなかった。また友達ともよく衝突した。
父はぼくのことをよく怒ったが、常にぼくの味方だった。
誰がなんと言おうと、不器用なぼくの言葉を100パーセント信じてくれた。
どんなときも、ぼくの味方で一番の理解者であった。
全てを包み込んでくれた。だから、ぼくは父の優しさをいつも感じていた。
ぼくは、小さな頃から、父の経営する小さな町工場を継ぎたいと思っていた。
しかし、ぼくに何かを見いだした父は、いつの日か、「お前の助けはいらん。お前はお前で、勉強して自分で食っていけ。工場は継がなくていい」と言った。
正直、ショックだった。
でも、今になって思うに、それは父が悩んだ末のぼくへ深い愛情だったのだろう。ぼくには、男の兄弟がいなく、ぼくが跡を継がなければ工場は終わる。父の本音は、工場を継いで欲しかったはずだと思う。
実際には、父は42歳の若さで他界し、工場は倒産、廃業となった。
それは、ぼくが高校に入学し、ほどなくしてからのことだった。
闘病の中で、父はぼくに医者になってほしいと望んだ。
父は、いつもぼくを包み込んでくれた。その父がぼくに望んだことだ。
学校の先生は、「父親の希望はお前の希望ではない。」と言った。それでも、ぼくは、それが自分の目標点だと思った。
ぼくは、一度東京へ行ったものの、やはり医者になることを諦めきれずに岐阜に戻った。
大切な人や何かを失うことは、誰にとっても乗り越えるのに大変時間がかかることだ。
ぼくも、そうだった。
心療内科・精神科を受診される方の多くが、それぞれの喪失体験(健康や財産、仕事・役割の喪失、あるいは家庭不和、離別など)をされていることが多い。
乗り越えられないということは、苦しくて辛いことである。
その一方で、乗り越えられないということは、その失くしたものが、それだけ自分にとって大切なものであったということであり、誇りに思ってよいことだと思う。だから、必ずしも乗り越えられなくてもいいのではないかな、とぼくは考える。
ぼくは父を失い、放心のような日々の後、医学部に入った。その後も目標を見失うこともあったが、自分のような不器用な人間でも、何か人の役に立ちたいと思って、一生懸命勉強した。
心療内科・精神科を選んだのは、人それぞれの生き方に興味があったからだ。また、ぼくだからこそ、出来ることがあると感じたからでもある。
人はいろいろな状況で互いを支えたり、支えられたりして日々を過ごしている。
よい出逢いもあれば、人生をくつがえすような出逢いもある。
その出逢いの一つが、このクリニックだとしたら……。
かつての父がぼくにしてくれたように、あなたの生活を見守って、あなたを信頼して、あなたの人生をつなぐ。
これまでに経験し、つちかってきた技巧にもとづいて、適切な対応を心掛け、「信じて、味方でいたい」。
これこそが、父の教えに基づいた、ぼくの診療方針であり、原点である。これからも、初心を忘れず、精進していきたい。